プロフィール

PROFILE

鵜澤恵一

うざわけいいち

 
1959年7月千葉県生まれ(64歳)
ひたちなか市田彦在住
 
千葉県立大多喜高校卒業、千葉大学電子工学科中退
ITエンジニアを経て、不動産鑑定企業に勤務
東日本大震災をきっかけに市民活動に参加
「いばらき原発県民投票の会」元代表として活動。現在、ひたちなか市の市民グループ「ここに種をまく」代表として活動中
2023年10月ひたちなか市議選で初当選
 
家族は配偶者、長女(社会人)、長男(専門学校生)の4人
趣味は、オフロードバイク、登山、ジョギング、料理など 
 
TEL 090-3964-0017
FAX 029-270-2560

img_2597.jpg img_2304.jpg img_2096.jpg img_2140.jpg

めいっぱい遊び
励んだ学生時代

生まれは、千葉県の大多喜町という田舎町。春先に菜の花畑のなかを走る「いすみ鉄道」で知る人には知られている。中学生のときは軟式テニス部に属し、夏は朝早くから日が落ちるまで真っ黒になってコートを走り回っていた。上級生になるとキャプテンを務め、選手の成績としては県大会個人戦ベスト8。
地元の高校にすすみ、今度は剣道部に入部。3年間稽古に励み、取った段位は2段。このころ実家が父の事業の関係で市原市姉崎に転居する。大学進学を志し受験するも全滅、一年間の浪人生活のあと、千葉大学工学部に入学。大学生のときは、ワンダーフォーゲル部に所属し国内の登山に明け暮れる。このとき登山の安全対策など夜を徹して議論することをくり返す。
 
たかが遊びに
何でこんなに一生懸命になるのだろう
ふと思うこともあった。むしろ遊びのことだからこそ一生懸命になれたのかも知れない。あらゆるアルバイトも経験した。そこで出会った測量の仕事でのめりこむようにして働いた。学生バイトのまとめ役のようなこともやった。
 

天災を目の当たりにして

都内でIT系の仕事につき、SEとして多忙な日々を過ごす。
父親の死をきっかけに母親と同居することを決意、かつて働いた測量設計の会社に転職。
早朝から屋外で現場仕事をしたあと会社に戻り、データ整理で毎日夜遅くまで働く。
男臭くて過酷な仕事だったが内容的に性に合っていたと自分では思っている。
残業が常態化しており、会社に寝泊まりする日々が続き、出張も多く、現場が銚子漁港や新島からアクアラインまでバラエティにとんでいた。
 

そんなある朝、同僚のもってきたスポーツ紙の一面の写真はショッキングなものだった。
阪神淡路大震災
高速道路が横倒しになっている写真に、度肝を抜かれた。
その後も震災に関する報道に心を奪われる。がれきに自由を奪われ動けずにいる家族に「すぐ助けを呼ぶから」というが助けには誰もいくことができず、そのまま延焼により命を奪われた人々のこと。
21世紀の日本でこんなことが起こるのか
 
また晴海通りで現場作業をしていたときに築地で騒ぎがあった。
地下鉄サリン事件だった
普段平穏に暮らしていること自体が、実はかなりラッキーなのじゃないかと思った。
 
 
多忙で過酷な仕事の毎日を過ごしていたある日、
大学時代の先輩から「ウチへ来ないか?」と誘われ水戸への転居・転職を決意。母親と2匹の猫とともに千波町に小さな家を借りる。翌年結婚、その後2人の子供が生まれ、ひたちなか市に転居、現在に至る。
茨城に転居したことでホッとしたことが二つ。ひとつめはもう満員電車で通勤する必要がなくなったこと。ふたつめは阪神大震災のような大地震を都内で経験することを免れたことだ。

市民と共に社会運動へ

社会的な活動などは一切していなかった私であったが、一転したのは
東日本大震災である
今までに経験したことない強さと長い揺れ。水戸の職場やひたちなかの自宅にも被害はあったが、沿岸への津波、そして原発事故という大災害をもたらそうとはそのときは想像もできなかった。
あの一連の災害は、私たちにとっては大変不幸な出来事であったけれど、この国の抱えるさまざまな問題点を浮き彫りにしたと思う。
 
震災時、東海村の原発も危険であったことを知り、反原発運動に参加するようになる。街頭での抗議行動やデモなどにも参加。思いはだんだん強くなり子供たちに残す未来を思い
できることは何でもしよう
と思い始める。
そんな折、同居していた実母が認知症になり、数年間の自宅介護を続けた。その後亡くなり、介護問題の難しさ、厳しさも知る。